〜ジメのMSXつれづれ〜
MSXって何?私なりの解釈
MSXは、MSとついて分かるように、マイクロソフトが開発したものである。(*1)
当時、PC-8801数種、FM-7、X-1、など、各メーカーが独自のシステムでバラバラだった頃に
MSX-DOS,
MSX-BASICなどを作り、MSXという規格のなかで、各メーカーが得意分野を反映したパソコンを作り出せるという環境を作り出したのだ。
これは80年代初頭の時期、すでに現在のWINDOWSのような環境をすでに構築していたすばらしいものだった。
(*1...実際にはアスキーが開発して、発売にこぎつけるために西がビルに頼んで商標を持ってもらったとか...)
ソニーはファミリーユースからビジネスまで、カシオは低価格、ヤマハは音楽、ビクターは映像
あと、松下、日立、サンヨー、東芝、パイオニア、富士通などなど、ほとんどの家電メーカーがMSXを作っていた。
各メーカーがしのぎを削って機種をだし、高機能低価格で「1家庭に1台パソコンの時代」を押し進める役割を担った。
パソコンにはカートリッジスロットがついており、ゲームがしやすかったし
ソフトメーカーというメーカーがバンバンゲームをだして面白かった。
それはそれはすばらしい世界だった。
そしてMSXはMSX2に進化した段階では、他のパソコンに比べ価格と機能のバランスがよく、
こんな低価格でこんな美しいグラフィックが!?と驚いた人も多かったらしい。
...が、技術競争の激しいこの世界、パソコンとゲーム機の中間でのMSXはどんどん取り残されていったのだった。
待ち望まれたMSX3は一向に出ず、というか、アスキー(マイクロソフト?)がなげてしまって
MSXは、ソニーとパナソニックによる価格競争だけが激化してしまう運命をたどる。
最終的にはパナソニックだけが勝ち残り、時代が32ビット機を望む頃ようやく16ビットの
MSX-TURBO
Rというわけの分からないネーミングのものに進化し、終わってしまったのだった。
なぜMSXは消えゆく運命にあったのか?
まず時代の流れというものはあるだろう。
当時は、今ほど技術的進歩が急激に加速することはなかったが、
流れはやはり、8ビットパソコンから16ビットパソコンに移っていた。
それからもう一つの問題。それはMSXは低価格パソコンでしかもROMカートリッジスロットを持っていたため、
ファミコンと比較される事が多かった、ということ。
パソコンとしてROMカートリッジスロットを持つということは、とても機能性・可能性の面ですばらしかったが、
世間一般にはゲームパソコンとしてしか見られなかったのかもしれない。
ゲーム機としてだけ見たとき、価格・操作性等、MSXよりもファミコンの方が当然優位であることは明白だった。
しかし、MSXの利点はもっと生かせたと私は思う。
別に、8ビットパソコン・ゲームパソコンという低価格な世界でできることはあっただろうし、
MSX3(16ビット)にさっさと進化して、各家電メーカーの企画・生産を活性化させれば、
MSXという統一規格を継続する事もできただろうし、もっとメーカー独自の面白いMSXが生まれたかもしれない。
まあ何にせよ、進化のないモノは淘汰される・・・ってことですね。
ビルだか西だか知らんが「8ビットのままで十分」って言ったらしいが...。トップがそれじゃあねえ。(^^;
(ビルにはすでにWinの構想があって、MSXを見切っていたのかもしれないが...)
個人的な感情でモノを言わせてもらうと、もう、まじでアスキー何してたんだってかんじ。(-_-#
(途中で登録商標がマイクロソフトからアスキーにかわった)
まあ、ハードの開発能力がないアスキーが、MSXの登録商標を持つこと自体、無理があったとも言えるが。(*2)
(どう見ても私には、アスキーが出版会社としてしか見えなかった。てゆうかそうだったのかな?(笑))
(*2...正確に言うとハードの生産能力がないアスキーが、が正しい)
MSXとの出会い
私が初めてMSXを購入したのは1984年頃、小学校4年生くらいだったと思う。
当時巷はファミコンでにぎわっていたが、僕の中にはファミコンはテープデッキで言うと「再生専用」
パソコンは「録音・再生」といったイメージがあった。
ゲームは楽しみたいけど、自分でも何かクリエイトしたい。そう考えていたと思う。
当然、PC-8801とかFM-77、X-1などは高価で買ってもらえるわけがなかった。
必然的にMSXパソコンということになったわけである。
しかも、値段がファミコンのレベルの話だったので、機種はCASIOの「MX-10」19,800(定価)というものだった。
RAM16K、VRAM16K(だったかな?)キーボードのキーは□8mmほどのゴム製、ボディーもA4サイズくらいという
超コンパクトというもので、今では考えられない低機能さだった。(笑)
それでも19,800という価格は当時でも驚かれていたし、僕には十分だった。
パソコンと言うだけでファミコンとは違い、ゲームやグラフィック、音楽を作り出すことができる可能性を
秘めている、ということがうれしかった。
その後、私のマシンはソニーの「HB-F1」、東芝の「PASOPIA
HX-34」と移りかわっていくことになる。
小学生が英語でキーを叩くのはつらかった。
自分でプログラミングしてゲームを作るというのは夢だった。
すごいことだと思っていた。
それだけに、大変だろうとは思っていたが、これほどまでに大変とは・・・。って感じだった。
「BASIC PROGRAMMING
MAGAZINE」通称ベーマガやプログラムポシェットを買い、
一番行数の少ない1画面ゲームプログラムを打つことにしたのだが
小学生の上に初心者、キー配列も英語もわからず、ものすごく時間がかかった。
タイプミスも多く、エラーばっかり。
たった数十行のプログラムでも丸1日かかったことを覚えている。
おかげで「プログラミング」とは、「やってる内にいつの間にか日が暮れて、真っ暗な部屋の中でカタカタやるもの」
というイメージがついてしまっていた。
PSG音源万歳
そんな中、そんなに難しくないプログラムを見つけた。
MMLである。
小学生の時、ピアノを習っていた私にとって音楽は難しいものではなく、理解しやすかった。
MSXのPSG音源は3音同時までが限度だったが、ファミコンもそうだったし、十分だった。
私はそれに夢中になった。
いろんなゲーム音楽などを耳コピで一度譜面におとし、MMLに変換してプログラムした。
何といっても僕はキンキンしたPSG音源の音が好きだった。
それは今でも変わっていない。
MSXマガジンは最高だった。。。
雑誌といえば「ベーマガ」も良かったが、「MSXマガジン」(*3)がすばらしく良かった。
表紙にはMSX2で描かれたグラフィック(*4)、内容もゲームの特集から、上級者向けのマシン語講座、基板いじり、
海外MSX情報、などなど初心者から上級者までが楽しめる内容の濃い雑誌だった。
この「MSXマガジン」を読んで、MSXはパソコンなのだ。ということを実感することができたものだ。
ソフトのレビューもすばらしいし、ウラ技やイラストのはがきを載せるコーナーも大盛況だった。
私も、「TOP10」の読者のコメントに載せてもらって、ウーくんのMSXキーホルダーをもらったことがある。
(ウーくんとは、桜沢エリカさんが描いていたキャラクター。MSXマガジンは、他にもいろんなキャラクターを
持っていた。TOP10に出てくるライオンのトピオ(TOPIO)とか、べーしっ君、スカンクのキャラ、編集長の
顔だけキャラ(たぐっちゃん?)などなど。めるへんめーかーが必ずイラストを載せていたりとか、そういうのも楽しかった。)
途中から「MSX
FAN」なる雑誌が出てきたが、それはゲーム紹介が主なファミコン雑誌に近いものだったと思う。
残念ながら、MSXマガジンはそれとの闘いに敗れたのか、MSXFANに近い形態(*5)になり、遂には発行を終了して
しまうわけだが、私が思うにMSXマガジンの衰退がMSXの衰退そのものだったと思う。
(*3...私が良かったと言っている時期は後でキャラの紹介があるように田口編集長時代と呼ばれている。
やはり多くの人がそう思っているのか、復刻したMSXマガジンは、この田口編集長時代の形式をとっているように感じる。)
(*4...このグラフィックは大野一興氏のデザインで本当に素晴らしかった。やはり復刻したMSXマガジンの表紙も氏が担当している。)
(*5...このダメになっちゃったMSXマガジンは小島編集長時代と呼ばれている。)
最後はMSXFANも頑張ったことは認める
MSX-FANってあの作り方から考えると、テクノポリス系だったのかなあと思うが、
ショートプログラムを得意としていた。
最後、MSXマガジンがいなくなり、MSX-FANだけになった時はさすがに責任を感じたのか
値段は高くなったが、ディスクを付録するなどして頑張った。
最後の方は、過去のゲームソフトをディスクに付録するなどして、かなり頑張ってはいたがやはり苦しそうだった。
苦しい中、最後のMSX雑誌として頑張ってくれたことには深く感謝している。
やはりアスキーが・・・
だいたい、MSXの商標をもつアスキーが先にMSXを投げてどうするという声もある。(*6)
MSXマガジンは大好きだったが(田口編集長時代)、アスキーはいただけない。
(なんだそりゃ・・・(^^;; )
(*6...正確には休刊していたわけで、実際に復活したわけだが・・・。やはり、あの時期に先に投げるのはどうかと思う。)
コナミは最高だった
コナミは本当にMSXのゲームを作るのがうまかった。
ファミコンよりも確実にこちらの方がいいできだったし、力も入れていたような気がする。。
そしてPSGの「コナミ効果」、独自の開発による「SCC音源」など、音楽も最高だった。
モアイ佐々木さんお元気でしょうか?
(以前、就職活動でコナミに行ったとき、コナミの会社紹介パンフの中でで佐々木さんが偉くなられて、
部署を紹介されており、なんかなつかしかったと言うかうれしかったです。)
また、広報の紙尾さんという方が雑誌やイベントにゲーム紹介などで登場していたんだが、
綺麗な方だなぁ...と子供心にあこがれた想い出が・・・。(笑)
まあ、とにかくMSXではコナミが1番であることは間違いなかった。
ゲームの詳しい話は、別のページで。。
MSXはエミュレーションという形で生き続ける!
私は懐古趣味も入りながら、大学時代にMSXで良く遊んだ。
残りわずかな命のMSX-FANも買った。
ソフトはすでにどこにも売ってなかったので、TAKERUにもよく買いに行った。
しかし、大学の専攻上の理由でマックを始め、それにハマっていき、MSXの存在は薄れていくことになる。
そんなある日、同じくMSXファンだった学科の友人C氏がこう言うのだ。
「マック上で、MSXが走るぞ。」
なにーーー!!!!?
私は高校時代、やはりMSXユーザー経てX68000ユーザーになった高校の友人Nが、
X68000マシン上で動くMacを見せてくれて
「こういうのエミュレートっていうんだ。」
と教えてくれたことを思い出した。
エミュレートかっ!!!!!
オレの中に、またMSXの炎が渦巻いてきた。
「fMSX」・・・それはすばらしいソフトだった。
完全にオレのマックの中にMSXが復活したのだ!
ゲームソフトはもちろん、昔つくったMSX
BASICのプログラムも音楽もマックの中で動いているのだ!
そしてインターネットでは、オレと同じようなMSXファンが大勢いたのも衝撃的だった。
そうだ。みんなそう簡単にMSXを忘れてしまうはずはないんだ!!!
MSXはこれからもfMSXとして、大勢の人達に支えられながらで行き続けていくのだ。
それが分かったとき、ホッとすると同時にオレもインターネットで何かやらねば!
という使命感みたいなものも感じたのだった。
・・・と、いうわけで、こうしてだらだら書いているわけですが、、、ホントこれからもMSXを
楽しんでいきたいなあと思うわけです。はい。
(本文執筆...1998年頃 注訳...2005)
上記はインターネットを始め、色んな世界が広がっているのを知り、嬉しくてしょうがなかった時期に
使命感にかられて書いた文章です。あれからもう随分経ちました。
注訳にもあるように特別発行ですがMSXマガジンが復刊し、
アスキーがエミュレータを公式に発表するなど色んな動きもありました。
まあMSX生誕20周年という節目に、皆の懐古の気持ちが高まってひとつの大きなムーブメントになったわけですが
これからも、こういう昔を想う動きは続いていくと思います。
実際にまだまだ当時のゲームは面白くて遊ぶし、携帯電話のJavaアプリという環境が
当時のゲームを今、現在進行形にしてくれています。
そんなわけで、これからもマッタリと続けていきますので、どうかよろしくお願いします。(2005.3)
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